神様が願いをかなえてくれる、お願いの仕方のお話をします。天理教では、現代にいたっても、不思議な助かりをする方が大勢います。それにはお願いの仕方があるからです。その究極な例を若い頃今から45年ほど前に聞きましたのでお話しようと思います。
皆さんは、神社さんに参拝して、願掛けをする時、どういう心で神様にお願いしていますか?ただ御祈祷料払ってお願いしたら良くて、それで終わりと思っていませんか?ところが、御祈祷料払っても、お願い事が殆どかなわない事が多いと思っていませんか?神様にお願いするには、御祈禱の時に、【~しますから願いをかなえて下さい。】というように、神様となにか契約しなければなりません。【願いがかなったら、~します】というようなお願いをしても、願いはかないません。
さて、ここからが重要です。天理教の教会では、100%とは言いませんが、不思議に願いが叶う事が多いのです。それは、お願いの仕方によるのです。
神様は、救かりたい人と救けたい人の心が一つになった時に、お救け下さいます。ですが、ただお願いするだけではなく、何かを神様と契約しなければなりません。~しますので、~のお願いをかなえて下さい。
【~しますので】を天理教では、【心定め】と言います。
例えば極端なたとえですが、昔、橋を架けるときに、どうしても失敗がつづいた時、人柱をたてて(人を生贄にして)その命と引き換えに、橋を安全にかけて、末永く橋を渡れるようにお願いし、無事橋が開通した。と言うように。
これは、ある布教師さんが、親神様と、とんでもない契約をし、願いがかなった、お話です。
私が天理教のことを集中的に3か月間学ぶ修養科にいたころ、修養科の同期の方から聞いたお話です。
その方の身内の方に、非常に熱心にお救け(おたすけ)をする布教師の方がいます。その方は、命の危険がせまった方のお救けに、熱心に取り掛かっていました。しかし事態は悪化するばかりで、とうとう危篤状態になってしまいました。危篤状態の方とご家族は、天理教の信者ではありませんでしたが、熱心な布教師の方は、救けたい一心で、お救けに通っていました。いよいよというときに、その布教師さんにはお子さんが何人かいましたので、自分の子供の一番年下の女の子の命と引き換えに救けて下さい。とお願いし、おさづけ(祈祷)をしました。
その頃その布教師の一番下の女の子は、近所のお友達と一緒に、手毬をついて遊んでいましたが、毬をつきながら、突然倒れそのまま息を引き取ってしまいました。布教師の方は、一報を聞き、急いで帰りその時の状況と時間の説明を受けました。まさに、命と引き換えにおさづけをとりついだ時間だったのです。
そして、危篤状態にあった方は、命を取り留めお元気になりました。しかし、たすかった方やそのご家族は、たすかってよかったよかった。と言いましたが、天理教の信者になることはありませんでした。それでも、布教師の方は、神様は願いを受け取って下さった。と言ったそうです。
皆さんは、命が救かったのも、布教師さんの子供が死んだのも偶然だよ!ってお思わるかもしれません。でも、この布教師さんは、命をお救けいただく為に、自分の子供の命をさしだしたのは事実です。そして、たすかりを願う心を神様はうけ取って下さった。と、なお一層布教に励まれたそうです。
この事例は極端な事例です。命にかかわる事なので、命のやり取りの契約をしたのでしょうか?それを神様は受けとられた。ということでしょう。たすけたい気持ちと、助かりたい気持ちが一つになった時に、その気持ちを神様が受け取ってくださると、不思議なたすかり方をします。
神様にお願いする時は、その場の思いつきで、後々できないような事を契約しないで下さい。とんでもない事に陥る事があるかもしれません。
神様はこの世は神の体やといわれています。生きていることに感謝して、その体をきれいにする為に、落ちているゴミを拾うというような、契約でも良いのです。自分に見合った契約をしましょう。実行できることを、実行しつづける事ができるお願いという事が、どこの神様であれ、お願い時の契約には、重要なのです。