天理という言葉は、昔からある言葉で、大明解漢和辞典に載っています

天理教って知ってる?
天理教の人は、天理教は一言で言うと、陽気ぐらしの天理教だよ。と言う。
天理教のパンフレットの一つに、「カルト宗教気をつけて」という内容のパンフレットがある。
イヤイヤ、知らない人から見たら天理教も充分怪しいよ。もしかしてカルト?って思う宗教だよ。
おもしろいね
天理という言葉は、昔からある言葉で、大明解漢和辞典に載っています
天理教って知ってる?
天理教の人は、天理教は一言で言うと、陽気ぐらしの天理教だよ。と言う。
天理教のパンフレットの一つに、「カルト宗教気をつけて」という内容のパンフレットがある。
イヤイヤ、知らない人から見たら天理教も充分怪しいよ。もしかしてカルト?って思う宗教だよ。
おもしろいね
神様が願いをかなえてくれる、お願いの仕方のお話をします。天理教では、現代にいたっても、不思議な助かりをする方が大勢います。それにはお願いの仕方があるからです。その究極な例を若い頃今から45年ほど前に聞きましたのでお話しようと思います。
皆さんは、神社さんに参拝して、願掛けをする時、どういう心で神様にお願いしていますか?ただ御祈祷料払ってお願いしたら良くて、それで終わりと思っていませんか?ところが、御祈祷料払っても、お願い事が殆どかなわない事が多いと思っていませんか?神様にお願いするには、御祈禱の時に、【~しますから願いをかなえて下さい。】というように、神様となにか契約しなければなりません。【願いがかなったら、~します】というようなお願いをしても、願いはかないません。
さて、ここからが重要です。天理教の教会では、100%とは言いませんが、不思議に願いが叶う事が多いのです。それは、お願いの仕方によるのです。
神様は、救かりたい人と救けたい人の心が一つになった時に、お救け下さいます。ですが、ただお願いするだけではなく、何かを神様と契約しなければなりません。~しますので、~のお願いをかなえて下さい。
【~しますので】を天理教では、【心定め】と言います。
例えば極端なたとえですが、昔、橋を架けるときに、どうしても失敗がつづいた時、人柱をたてて(人を生贄にして)その命と引き換えに、橋を安全にかけて、末永く橋を渡れるようにお願いし、無事橋が開通した。と言うように。
これは、ある布教師さんが、親神様と、とんでもない契約をし、願いがかなった、お話です。
私が天理教のことを集中的に3か月間学ぶ修養科にいたころ、修養科の同期の方から聞いたお話です。
その方の身内の方に、非常に熱心にお救け(おたすけ)をする布教師の方がいます。その方は、命の危険がせまった方のお救けに、熱心に取り掛かっていました。しかし事態は悪化するばかりで、とうとう危篤状態になってしまいました。危篤状態の方とご家族は、天理教の信者ではありませんでしたが、熱心な布教師の方は、救けたい一心で、お救けに通っていました。いよいよというときに、その布教師さんにはお子さんが何人かいましたので、自分の子供の一番年下の女の子の命と引き換えに救けて下さい。とお願いし、おさづけ(祈祷)をしました。
その頃その布教師の一番下の女の子は、近所のお友達と一緒に、手毬をついて遊んでいましたが、毬をつきながら、突然倒れそのまま息を引き取ってしまいました。布教師の方は、一報を聞き、急いで帰りその時の状況と時間の説明を受けました。まさに、命と引き換えにおさづけをとりついだ時間だったのです。
そして、危篤状態にあった方は、命を取り留めお元気になりました。しかし、たすかった方やそのご家族は、たすかってよかったよかった。と言いましたが、天理教の信者になることはありませんでした。それでも、布教師の方は、神様は願いを受け取って下さった。と言ったそうです。
皆さんは、命が救かったのも、布教師さんの子供が死んだのも偶然だよ!ってお思わるかもしれません。でも、この布教師さんは、命をお救けいただく為に、自分の子供の命をさしだしたのは事実です。そして、たすかりを願う心を神様はうけ取って下さった。と、なお一層布教に励まれたそうです。
この事例は極端な事例です。命にかかわる事なので、命のやり取りの契約をしたのでしょうか?それを神様は受けとられた。ということでしょう。たすけたい気持ちと、助かりたい気持ちが一つになった時に、その気持ちを神様が受け取ってくださると、不思議なたすかり方をします。
神様にお願いする時は、その場の思いつきで、後々できないような事を契約しないで下さい。とんでもない事に陥る事があるかもしれません。
神様はこの世は神の体やといわれています。生きていることに感謝して、その体をきれいにする為に、落ちているゴミを拾うというような、契約でも良いのです。自分に見合った契約をしましょう。実行できることを、実行しつづける事ができるお願いという事が、どこの神様であれ、お願い時の契約には、重要なのです。
親神は陽気ぐらしを急き込まれる上から、教祖をやしろとして、この世の表に現れた、奇しきいんねんと、よふきづとめの理を、人々によく了解させようとて、元初りの真実を明かされた。
この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。
そこで、どろ海中を見澄されると、沢山のどぢよの中に、うをとみとが混つている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経つたなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。
続いて、乾の方からしやちを、巽の方からかめを呼び寄せ、これ又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて、これ等を男一の道具、及び、骨つっぱりの道具、又、女一の道具、及び、皮つなぎの道具とし、夫々をうをとみとに仕込み、男、女の雛型と定められた。いざなぎのみこと いざなみのみこと とは、この男雛型・種、女雛型・苗代の理に授けられた神名であり、月よみのみこと くにさづちのみこと とは、夫々、この道具の理に授けられた神名である。
更に、東の方からうなぎを、坤の方からかれいを、西の方からくろぐつなを、艮の方からふぐを、次々と引き寄せ、これにもまた、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試された。そして夫々、飲み食い出入り、息吹き分け、引き出し、切る道具と定め、その理に、くもよみのみこと かしこねのみこと をふとのべのみこと たいしよく天のみこと との神名を授けられた。
かくて、雛型と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されることとなつた。そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。そして、月様は、いざなぎのみこと の体内に、日様は、いざなみのみこと の体内に入り込んで、人間創造の守護を教え、三日三夜の間に、九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみこと の胎内に宿し込まれた。それから、いざなみのみこと は、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかつて、子数のすべてを産みおろされた。
最初に産みおろされたものは、一様に五分であつたが、五分五分と成人して、九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、父親なる いざなぎのみこと も、身を隠された。しかし、一度教えられた守護により、いざなみのみこと は、更に元の子数を宿し込み、十月経つて、これを産みおろされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて三寸五分まで成人して、皆出直した。そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて四寸まで成人した。その時、母親なる いざなみのみこと は、「これまでに成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、につこり笑うて身を隠された。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた。
その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残つた。この胎に、男五人女五人の十人ずつの人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八寸になつた時、親神の守護によつて、どろ海の中に高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた。そして、人間は、一尺八寸から三尺になるまでは、一胎に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始め、一胎に一人ずつ生れるようになつた。次いで、五尺になつた時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになつた。
この間、九億九万年は水中の住居、六千年は智慧の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。